東京高等裁判所 昭和34年(う)1393号 判決 1960年2月13日
被告人 武田文雄
主文
本件控訴を棄却する。
当審の訴訟費用は全部被告人の負担とする。
理由
(弁護人の)控訴の趣意第一点について
所論は原判決の認定事実中、被告人がその子一耕を原判示の時間の間、両手を針金で縛り、押入に入れ、その戸を開閉できぬよう釘づけにしていたとの事実は、その証拠不十分で確認できないから、この点原判決に事実の誤認があるという趣旨であるが、記録を調査し、且つ原審で取り調べた証拠物を検討すると、原判決挙示の証拠、殊に武田律子及び武田久子の司法警察員に対する各供述調書、医師海野栄の武田一耕に対する診断書、司法警察員作成の検証調書の各記載及び押収の針金の存在、その形状等を総合し十分これを認めることができるのであつて、当審の事実審理の結果によつても右認定を左右するに足りない。従つて原判決には所論のような事実誤認の違法は認められないから論旨は理由がない。
控訴の趣意第二点について
所論の要旨は、原判決には理由不備の違法、民法第八百二十二条の解釈の誤及び期待可能性の理論適用の誤がある。本件被告人の行為は親権者の子に対する懲戒権の行使であつて、一耕の性質、非行の類は通常の方法では容易に改善できない性質である、同人の行状に鑑みたとえ押入の釘づけ、両手の制縛の事実があつたとしても、違法性、反良俗性ありとはいえない、被告人としては一耕を改善するためには他にとるべき方法がなかつたのであり、被告人の家族もこれを肯認していたというのである。
そこで記録にあらわれているすべての資料、証拠物及び当審の事実審理の結果を総合して考察するに、親権者たる実父が子の性行、悪癖を矯正する目的で、制縛、監禁等の方法を用いてその子の自由をある程度拘束することは、法が親権者の懲戒権を認めた趣旨に鑑み許さるべきものであろうが、その懲戒の方法、程度は、その親子の社会的地位、境遇、子の年令、体格、性質並びに非行の種類、態様及び性質等により個々の場合の具体的事情に基き一般社会人において妥当適切と首肯できるものでなければならないことは論をまたない。ところで本件の児童一耕は、記録によれば当時九才の幼少の子であり、その体格も当時は平均児童に比し発育良好でなく、当時の性格は内攻的、反抗的、強性であり、且つその非行は学校内において他の児童の弁当を盗みぐいしたり、教師の金などを盗み買いぐいしたり、また自宅近隣から食物を盗みぐいするという行為であつたが、この程度の年令、心神の発育状態、性格の児童の、この種類、程度の非行を矯正するため、その両手を針金で緊縛し、板戸のある押入内に入れ、敷居に釘を打ちつけてその戸が開かないようにし、用便、食事の時以外はその制縛を解かず、夜昼十数時間以上も継続して閉じこめ放任しておくという行為は、到底一般社会人の首肯できる妥当な懲戒行為とは認められず、即ち正当な懲戒権行使の限度を越えたものであつて刑法上違法性を有する不法な行為と断ぜざるを得ない。
所論は一耕の性格、非行の類は通常の方法をもつては容易に改善ができず被告人としては他にとるべき方法がなかつたというのであるが、原審及び当審の証人井形寛の証言によれば、茨城学園入所後の一耕は次第に教化されその性行が改善されつつあることを認めることができるから、この種の児童心理に対する理解と具体的に適切妥当な方法により善導すれば、一耕の性行といえどもこれを改善することが不可能とはいえない。記録によれば被告人は本件より数ヶ月前も、一耕の性行を矯正する目的で今回と同種の懲戒行為を行つた事実が認められるが、その後半年も経ないうちに、一耕が再三同種の行動にでていることに思をいたさば、一耕に対し本件のような懲戒方法を用いても、殆んどその効果なく、目的を遂げることができないことを知り得た筈である。
然るに被告人は全く自己独自の偏見的な教育観にとらわれ、学校教育を蔑視して一耕を通学させず、児童教育及び児童心理に専門的な公平な第三者の意見も求めようともせず、自己の信念行動に深い反省を試みることもなく、ひたすらその効果の期待し難い本件のような懲戒行為を反覆していたのである。若し被告人にして外面に現われた一耕の非行のみを追究することを止め、一耕の性格、非行の原因を探究するに真摯な熱意と冷静な反省をもつてし、父としての深い愛情と不断の努力とをもつて一耕を善導したならば、同人の性行を改善することは必ずしも困難ではないこと、前記証人の証言からも窺い知ることができる。要するに一耕の性行の改善は所論のように至難なものではなく、且つ被告人に期待可能性を欠く事情があつたことは到底認められない。
(裁判官 中西要一 久永正勝 河本文夫)